今、幾つか思うこと



私は今、幾つか思う事がある。


まずは、ゲームでFPSというジャンルに入り込んだ事。
FPSとはファーストパーソンシューティング(一人称視点シューティング)の略。
昔、友人にチームフォートレスというゲームを初めてやらせて貰ったのがファーストプレイだった。
メディックという味方を回復し、敵には疫病を植え付けるというのもあった。足が速いので、他の職業並みに働くシーンもあった。
前回のPSOについでの中でも言っていた、友人の弟の台詞はこのゲームをやっている時だった。
前衛職ではなく、サポートに主を置く職業好きはここから、PSOのフォニュエールのチャオへと繋がっていく。
今は辞めてしまった前の会社でも、内勤のサポートに関する所に居た時が一番頑張れたし、充実していたと思う。
話が逸れてしまったので元に戻そう。
そのチームフォートレスから数年、私はFPSと言うジャンルには一歳触れていなかった。
丁度、ゲームをやっていて谷間になっていた時に友人からHALOの話をされて、パックで安いなら外れでも良いかなという安易な考えで購入した。
一人で全部やるのは初めての事で、前のチームフォートレスは名前の通り、ネットで仲間が居て成り立っていたものだった。
最初は動きに苦戦したものの、慣れとストーリーが私好みだったのであっという間にはまり込んで行った。
イージーでなれた瞬間にノーマルでやり直し、1と2を一気にクリアした。
それから、関連HPでランクレジェンドではエンディングが違うというのを知った瞬間に、、「そのエンディングを自力で見たい、見るんだ。」という私のゲーマー魂に火が着いた。
道のりは険しく辛いものだった。ただ、途中で挫けそうに鳴った時に偶然見せて貰った動画で奮い立ったりして、自力で見る事が出来た。
そのベースを継いで、数年ぶりに初めてやった続編であるチームフォートレス2をやらせて貰う事になる。
何もしていなかったら、かなり苦戦したかもしれないが、キーボードで少し慣れないとはいえHALOの下地があったお陰でかなりスムーズにプレイする事が出来た。
勿論選んだのはメディックだけど(笑)
2になって進化を遂げ、楽しさも倍増していた。
今思ったのは、日本にあるゲームでやった分だけ上手くなった事などに一番満足出来るのがこのFPSというジャンルだと思う。
私自身はこのジャンルではまだまだひよっこではあるが、それでもゲームとして楽しめて向上する事でも喜びを得れる。これはとっても大きな事だと思う。
私にとってこのジャンルに入れた事、自分の思う良いゲームに巡り合えた事を幸せに思う。
他にやりたいゲームや物事がある人には何も言わないし、むしろその興味がある事に全力を傾けて貰いたいと思う。
ただ、文句や言い訳だけを並べ立てて何もしない、してないのなら試しに何かをやってみたらどうだろうか?先入観ややらず嫌いだけでは、自分の趣味ややりたい事はいつまでたっても見付からないと思うから。


次に心の事。
精神的にボロボロの状態で会社を約二年前に辞めた。その傷を引き摺る間も無く良い意味でアイマスにはまり、多くのオンリーイベントを含めて参加し、その年には20冊を越える同人誌を発刊した。
一種の反動もあったかもしれないが、そんなものを超えたものがあったんだと思う。その年の夏には入院していたにもかかわらず、友人からノートPCを借りてまで原稿をあげて退院して新刊を持ってイベント参加していた。
振り返ってみて、おかしかったなあと思うが、その時はその事で頭が一杯で他の事など何も考えていない、いや、考えられないんだと思う。
元々一つの事しか出来ない私は、入り込んでしまうとそればっかりになってしまう。
だけど、その事は私自身にとって今までやってきた事を含めての自信や確信になっていると思う。

こんな自分勝手な私がここまでやってこれたのは周りの全ての人のお陰だと思っている。
その人達の支えがなければ、多分私自身これを書いている事もなかっただろうし、この世には居なかったとも思っている。
今まで多くの人の力を借りてきて、これからも借りる事になるだろう。
だから、せめて自分に出来る事をやって返したい。
こんな、ちっぽけで何が出来るか分からない私だけれど、何か出来ればと思うし、この思いを無くしてはいけないと思っている。


次に・・・
何の事っていえばいいか良く分からないから、ずらずらと・・・。
祖父の墓参りに十年以上ぶりに、行った事の無い親父と二人で行った。
亡くなって17年。丁度今の私が生きてきた半分の年月。
元々不仲だった両親の所に居辛かった私は、典型的なおじいちゃんおばあちゃん子だった。親父側の両親である祖父母は私がまだ小さい時に亡くなっていて記憶が無い。私は母方の祖父母にとっては初孫というのもあってか特に可愛がって貰った。ご多分に漏れず私も二人が大好きだった。
そんな祖父が、ガンで病院へ行った時には既に手遅れだったと知ったのは高校の時。
私が病院で見たのは昔からの記憶にある、恰幅の良い祖父ではなく、骨と皮でガリガリに痩せ細って計器類に繋がれ変わり果てた姿だった。
亡くなった直後はショック状態だったのか、訳が分からなく涙も出ない状態だった。ただ、次の日になって、ジンワリ来たのが一気に押し寄せて来て、家で一日中泣いていた。
親父殿は、何か理由があったのかもしれないが祖父のお墓に行く事はなかった。元々、向こう側に変に遠慮しているなとは昔から思っていた。

まだ私自身がクローン病になる前の話である。

そして、私にとって最後の祖母ひとりが残った。
時が経ち、ここ数年は年賀状や、少しの電話のやり取りだけで実際に会う事はなかった。母親ではなくその妹に当たる叔母から色々な近況を聞いていた。
長い事行っていなかった祖父の墓参りに行こうと決めて、親父殿も誘った。
要らない気を使って欲しくなかったのもあったから、申し訳なかったけど他の人には内緒で行った。

2007年10月21日(日)快晴
墓参りに日は雲ひとつ無い快晴で、車の中だと暑いくらいだった。
秩父の山の景色が見える場所に、揃ったのは・・・
久しぶりに来たクローン病暦10年を越えて34歳になった私。
初めて来た元気でまだ働いている64歳の親父殿。
そして、お墓に眠っている65歳でガンで亡くなった祖父。
「そっか、65で亡くなったのか。若かったんだな。そんな年には見えなかったな・・・。」
ぼそっと言った親父殿の言葉に、
「親父は64だよ。殆ど同じだよ・・・。」
私も小さい声で呟いた。
「そうか・・・。そうだな・・・。」
親父殿の言葉は少し強めの風に消されて、二人でお墓に水をかけて拭いて、線香をあげて手を合わせた。
その直後、私の方から親父殿に
「一緒におばあちゃんに会いに行こう。」
と誘った。遠慮されるかと思った。でも
「ああ、良いよ。」
いつものようにあっさりとして短かったが、私が嬉しい意味で予想を裏切った答えが帰って来た。正直、凄く嬉しかった。
その場で、祖母に電話を掛けたが、留守電だった。だけど、そこへ今日祖父の墓参りに二人できた事と、今度二人で会いに行く事を吹き込んだ。

次の日に起きてみると、叔母から祖母と話をしたらしくメールが入っていたので返信した。そして、程なく祖母自身から電話が入った。
膝を悪くして、坐骨神経痛もあってまともに歩いたり動いたり出来ない事実を聞いた。
そして、そういうのもあるせいか、うつ病も併発しているとの事だった。
「死にたいって思うし、首でもつりたいよ。だけど、ここだとつる所が無いんだよね。」
冗談っぽく言ったのかもしれないけど、私には衝撃が余りにも大きく一瞬真っ白になった。
「苦しいとか痛いのから解放されたいって思うもんね。」
私の本音だった。私もクローン病になった時は正直死にたいと思った。まあ、今は思っていないけど。
「健康な人には分からないよね。(叔母の名前)は分かってるから優しいよね。」
「ヘルパーさん以外誰も来ないしね。」
「動けないから、何か適当に買って来てね。」
「今年は調子が悪くて、お墓参りいけなかったの。行ってくれてありがとうね。」
「車で行ったんだったら私も一緒に行きたかったな。」
こんな言葉を聞いている内に、段々目頭が熱くなって来ていた。その反面、腹も立った。

私の根本にある部分の多くを、この祖母の言葉や教えから授かった。
それは、当たり前の事や私自身の信念にも繋がっている。
そのお陰で、今私は生きて居られるんだと思っている。

「必ず近い内に親父と一緒に行くからね。」
「うん、来る前にでも電話くれれば良いから。待ってるよ。」
そう言葉を交わして切った後、私は耐え切れずに泣いた。
自分の不甲斐なさ、祖母への申し訳なさ、自分の元母親などの無関心さ、色々な思いが一気に込み上げて来て、暫く泣き止む事が出来なかった。
「ごめん・・・。」
何回言っただろう・・・・。そう言いながら泣き続けた。

泣き止んでから、約束通り早い内に親父殿と一緒に祖母に会いに行くと固く心に誓った。


最後に・・・
私自身のこのクローン病の治療に関して今後どうなるか分からないけれど、考えているのは、いつ自分がベッドから離れられない体になるのか。
それまでに、行ける所には行っておきたいし、出来る事はやりたい。
例えそうなったとしても、出来る事を見つけて私は生きて行きたいと思っている。
それでも、出来なくなる事が増えると思って焦っている自分、恐れている自分がいる。

こんな私ですが、今までお世話になった方々、これからお世話になるであろう方々には変わらぬお付き合いをして頂けたら幸いです。そして、私自身も全力を持って、出来るだけ恩返しをしていきたいと思っています。