チャオ先生の電子カルテNO。3
チャオが外科医になってから10年・・・
今や、名実共にチャオの右に出る外科医は居なくなっていた。
そして、ついにその時がやって来た。
「では、全員一致でチャオを外科の責任者、外科部長と致します。チャオ。一言挨拶を。」
「はいにゃ。」
チャオは呼ばれて、全員の前に立った。
「今年で退職なさる外科部長殿に代わり、名に恥じぬよう勤めますにゃ。皆様のご理解とご協力をお願いしますにゃ。」
短くまとめて言うと、チャオは頭を下げた。周りからは拍手が自然と起こった。
「にゃは。」
チャオは頭を上げた後、少し微笑んだ。
(あたしはとうとう医師として頂点を極めたにゃ。あたしの天下だにゃ!)
チャオの心に慢心と、自身を天狗にさせるものが芽生え始めていた。
「最近のチャオ先生おかしいと思わない?」
「そうよねえ。なんか偉そうになっちゃったって言うか。」
「しっ!」
チャオが外科部長就任から一日も姿を見せなくなった食堂で、看護婦達がひそひそと話をしていた。傍をルーが通ると、静かに食べ始めた。
「もう三ヶ月、ルー婦長元気ないよね。」
「無理も無いわよ。あれだけチャオ先生に可愛がられてたし、余りの変わりように心を痛めているのよ。」
少し離れた場所から見ている他の看護婦のグループもひそひそと話していた。
「はぁ・・・。」
ルーは定食を目の前にして一人溜息をついた。
(チャオ先生・・・。昔の先生は何処へ行ってしまったんですか・・・。)
食べずに食事を見つめているルーを、好奇心の目と、気の毒そうな目が半々くらいで見ていた。
チャオの傍若無人ぶりは日に日に悪化して行った。
それはあからさまだったが、センター長のハリスでさえも止める事が出来なかった。
ここでは、悪い意味でチャオの聡明さが発揮されていた。
次々と優秀な医師を外科以外でも囲い込み、業者も医療機器メーカーだけでなく製薬会社なども自分の手飼いにしていった。
(ハリスなんて居ても居なくても、このメディカルセンターはあたしがどうにでも出来るにゃ。)
その手は薬局に回り、そしてついに会計部門へと伸びようとしていた。
そんな会計部門には、チャオと同期でメディカルセンターに入ってきたローがいた。
ローは「凄腕の見張り番」と言われ、恐れられていた。ただ、その勤勉実直な勤務態度が買われ会計責任者に当る総務部長になっていた。
「おかしい・・・。」
そんなローが、幾つかの決算データを睨んで呟いていた。
「部長、どうなさったんですか?」
不思議そうに事務員の一人が聞いた。
「ここだ、こっちも。請求額と実際の原価が違う。明らかに水増し請求だ。」
「本当ですね。あっ、こっちもですよ。どうします部長?」
「う〜む・・・。」
ローは腕を組みながら渋い顔をしていた。
「センター長、流石にこれは許可できませんぞ。」
ローはそう言いながら、データチップをハリスに渡した。
「どれどれ・・・。」
ハリスは受け取ってから、端末に入れた。出てくるデータには分かり易くローが色々と解説をつけてあった。
「これが明るみに出れば、メディカルセンターは不味い事になります。いえ、まだ未遂ですから今止めれば良いですが、これが通ってしまった後明るみになれば大変な事になります。」
「まあ、そうなんだが・・・。」
真面目に言うローにハリスは苦しそうな顔になって答える。
「犯人が誰かセンター長はご存知なんですね?」
「ああ・・・。だが、私でもどうにもならんのだ・・・。」
「・・・チャオ・・・ですね。」
困って言うハリスの顔を見ながら、ローはポツリと呟いた。
「・・・。」
無言のまま否定出来ない事が、答えになっていた。
「何とかして頂けないのなら私にも考えがあります。例え同期のチャオだとしても出る場所に出て貰う事になります。」
「少しだけ・・・時間をくれないか。それでも駄目なら、君に任せる。いや、任せざるを得ない。」
「分かりました。一週間待ちます。」
ローは本当に苦しそうに言うハリスの心境を察して静かにそう言うと、センター長室から出て行った。
「俺はどうしたら良い・・・。」
ハリスは椅子に寄り掛かり、天井を見上げながら呟いた。
自宅に帰ったハリスは妻のミュールに話を聞いて貰っていた。
「あらぁ、チャオちゃんがそんな風になっちゃったのねぇ。まあ、落ち込みやすい所ねえ。私に相談しちゃう所まで来ちゃったって事なのねぇ」
「ああ・・・すまん。」
「貴方が謝る事は無いわよ。仕方ないわねぇ。チャオちゃん才能があるのは良いけれど生かす方向を間違ってるわ。いつでもこんな事できるのにそ。今チャオちゃんにしか出来ない事をやらなきゃねぇ。」
そう言って、ミュールは妖しく微笑む。それを見て、ハリスは少し背筋に寒気を覚える。
「貴方、少し被害が出るかもしれないけれど、それは目を瞑ってね。」
「あ、ああ・・・分かった。頼む。」
(あ〜ぁ。ホントにチャオちゃんよっぽど酷い事になっちゃってるのねぇ。)
ハリスの頭の下げ方と必死さを感じてミュールは少し眉をしかめた。
・・・居酒屋「猫八」・・・
三日後の夜、ミュールはチャオとレイアを誘って飲みに来ていた。
「ごめんね送れちゃって。久しぶりだねえ二人共。」
レイアが、最後に来て席に座る。
「レイアちゃんが遅れるなんて珍しい。どうしたの?」
「ああ、ちょっと孫が熱出しちゃってね。娘があたふたして何も出来ないから仕方なく少し面倒見てきたんだよ。とりあえず、落ち着いたみたいだったから何かあったら連絡よこしなって言って出てきた。」
相変わらずの調子であっけらかんと言うレイア。
「大丈夫なのかにゃ?」
「大丈夫、大丈夫。少しくらい自分で面倒見れなけりゃこれからやってけないって。あ〜喉乾いた。マスターあたしビールね〜。」
「あいよ〜。」
「しかし久しぶりだねえ。あれからもう10年ちょっとになるねえ。二人共どうなんだい?」
「私は順調そのものですよ〜。子供もすくすく育ってるし、何だかんだで四人作ったしぃ。」
「ふみゃっ!?そうだったのかにゃ!?ハリスあんなに忙しいのに良くそんな時間あったにゃ。」
「は〜、こりゃまた随分と頑張ったねえ。」
ミュールの答えに二人は感心していた。
「あたしは今年外科部長になったんだにゃ。」
「へえ、見事に出世したんだねえ。」
レイアは素直に感心していた。
「だけど、いけない噂が聞こえてきてますよぉ?」
「いけない噂???」
ミュールの言葉にレイアが不思議そうに聞く。
「にゃんですか?」
チャオの方も不思議そうな顔をして聞いた。
「なんでも、チャオちゃんがメディカルセンター内で悪い事をしているとか。」
「あっはっは、あんたじゃないんだからそれは無いだろ。」
意味深に言うミュールにレイアは来たビールを飲んで笑い飛ばしていた。
「悪い事なんてしてないにゃ。普通の事してるにゃ。」
「そうだよ、ミュール。チャオがそんなことするわけ無いじゃん。」
チャオの言葉に乗じて、レイアはミュールの肩を叩きながら言う。
「本当かなぁ?業者からの水増し請求とかぁ、内部からの医療報酬の水増し請求とかぁ・・・。」
ミュールは目を細めて言う。
「そ、そんな事して無いにゃ・・・。」
流石のチャオも、ミュールの言葉にどもる。
「チャオ・・・あんたそんな事してんのかい?」
笑っていたレイアの表情も一転して曇る。
「にゃ!?してにゃい、してにゃい!」
チャオは慌てて両手を振りながら否定する。
「ふ〜ん、それじゃあ、今日の最初の特別ゲストを呼んじゃおうかなあ。」
「特別ゲスト???」
「にゃ?」
ミュールの言葉に二人共不思議そうな顔になる。
「現メディカルセンター総務部長のローさんですぅ。」
そうミュールが言うとローが入口から入ってくる。チャオの方はあからさまに狼狽してワタワタする。
「久しぶりだねえロー。随分と渋くて良い男になったじゃない。」
「久しぶりだなレイア。ありがとうよ。」
席まで来て、ローとレイアは挨拶しながらしっかりと握手する。
「じゃあ、せっかくお呼ばれしたゲストからの暴露モノがこれだ。」
そういうとローは端末から水増し請求のデータをホログラフにして空中に映し出す。
「はぁ、随分とまた数が多いねえ。」
レイアは感心したように言う。チャオの方は、ソロソロとその場を離れようとする。
「これが、全部チャオの所からの請求なんだが・・・。」
「ちゃ〜お〜。」
ローの言葉にレイアがトーンの低い声でチャオを呼ぶ。チャオはビクッとしてその場で止まる。
「ちょっと待ちなっ!あたしはね、あんたにこんな事をして貰いたくて外科医になる為の手助けをした訳じゃないし、婦長としても認めていた訳じゃないよっ!こんな事やってるならメディカルセンターなんて辞めちまいなっ!」
机を叩きながら、レイアの雷が落ちる。
「気分が悪いっ!あたしは帰るっ!これお代。釣りなんていらないからねっ!」
レイアはそれだけ吐き捨てるように言ってお代を叩きつけて置くと、怒って本当に出て行ってしまった。
「レイア・・・先輩・・・。」
チャオは出て行ったレイアの姿を見ながら、呟いていた。
「はい、ここでもう一人のゲスト〜。」
「ふにゃっ!?」
「?」
チャオと残っているローは誰が来るのかと入口に注目した。
「現メディカルセンター第二外科病棟婦長ルーさんですぅ。」
ミュールの言葉を聞いて、怒った顔をして目に涙を浮かべながら入口から身を乗り出して入って来ずに睨んでいるルーを見て白黒反転していた。
「くすくす。チャオちゃん。駄目よ、こんな事で動揺しているようじゃ。」
「にゃんですとっ!?」
ミュールの言葉で我に返って、チャオは思わず口走った。
「本当に悪い事をするなら中途半端じゃだ〜め。それにチャオちゃんはこんな事をする為に看護婦になった訳じゃないでしょ?何でなったのか思い出してみなさい。」
「にゅ〜・・・。」
チャオは何とも言えない顔になって唸る。
「ほ〜ら。ルーちゃんもそんな所に居ないで、入ってらっしゃい。言いたい事があるならちゃんと言わないとねぇ。」
「・・・失礼します・・・。」
ルーは静かに言ってから一礼して中に入って来た。
(うにゅぅ、気不味いにゃぁ・・・。)
チャオは正面に座ったルーと既に座っているローの顔を見る事が出来ず俯いていた。
「チャオ先生。見損ないました・・・。父や母との約束は嘘だったんですか?今まで私にしてきてくれた事、言ってくれた事も全部嘘だったんですか?」
ルーは途中から泣きながら叫ぶように言っていた。
「・・・。」
チャオは俯いたまま答えられなかった。
「そうです。ぜ〜んぶ嘘です。なんてチャオちゃん言えないでしょう。だからね、無理なのよ。それに、いずれチャオちゃんをも凌ぐ腕の持ち主が現れるわよ。天狗で居られるのも今の内よぉ。」
そのミュールの言葉にチャオは顔を上げて、隣のミュールを見る。
「今一番でも、新しい人達は出てくる。今何もせずに停滞していれば、それは未来においては後退しているのと同じ事。今この間にも、自分の腕を磨いている人が居る。こんな事言わなくたって、本来のチャオちゃんなら分かってる事だろうし、言わずともいっつもチャオちゃんがしてきていた事よ。」
ミュールはにっこりと笑いながら言う。チャオはその言葉にハッとした顔になる。
「こういう事は、私みたいな人間がする事。チャオちゃんはチャオちゃんの道をきちんと行かないと駄目ですよぉ。気が付いたみたいだから、これ以上は言わないでおくわぁ。」
それだけ言うとミュールは立ち上がる。
「あの・・・ミュールさん?」
ルーが立ち上がるミュールに声を掛ける。
「前置きしてなかったレイアちゃんを連れ戻してこないといけないからぁ。それに、外でい〜っぱい待ってる人が居るからぁ。」
「はぁ?」
ミュールの言葉の意味が分からなくてルーはキョトンとしていた。
「チャオちゃん。まずはルーちゃんに言う事があるわよね?」
「・・・ルー・・・。」
「はい。」
「・・・ごめんにゃ。」
チャオは上目遣いでチラチラとルーを見てから消え入りそうな声で謝った。
「はいっ!」
ルーは涙を目に溜めながらチャオに抱きついた。
「ローも、ありがとにゃ。」
「未遂なら何も無かったのと同じさ。今度こんな事が合ったら待たないからな。」
「うんっ。本当に心配掛けてごめんにゃ。」
ローの言葉に頷いてチャオはルーを抱き締め返した。
「さ〜て、長らくお待たせしました〜。チャオ先生が元に戻りましたよ〜。お祝いしてあげて下さいねえ。」
ミュールがいつの間にか入口に立っていて、そう言うと病院関係者が一気になだれ込んで来た。
「みんにゃ・・・。」
(ごめんにゃ、ごめんにゃ、ごめんにゃ、ごめんにゃ・・・。)
チャオはみんなの姿を見て、嬉し涙を流しながら内心で何度も何度も謝っていた。
「ふぅ、さ〜て、レイアちゃんに連絡っと。」
中の様子を見ながらミュールがビジフォンに手を掛けようとすると、それを止められる。
「あたしならここに居るよ。」
「あらぁ!?」
目の前に居るレイアに驚いてミュールはビジフォンを落としそうになる。
「何驚いてるんだよ。同期のあんたが何しようとしているか位分かってるっての。何年の付き合いだと思ってるんだよ。ったく。あたしをだしに使おう何て100年早いっていうの。」
落としそうになっていたビジフォンを渡しながらそう言って、レイアはミュールのおでこを小突いた。
「はぁ、レイアちゃんに読まれてるようじゃ私もまだまだだなぁ。」
ミュールはそう良いながらも顔は笑っていた。
「言ったなこいつ!今日は中に居る全員分とあたしの分おごりだからな。」
「うふふ、それは勿論。ちゃ〜んとハリスから前もって徴収してあるから大丈夫ですよぉ。」
「全く、そういう所はしっかりしてるんだから。」
そういうレイアも顔は笑っていた。
「あたし達が居なくてももう大丈夫だよね?」
ルーや他の仲間に囲まれているチャオを見ながら少し寂しそうに言うレイア。
「まあ、大丈夫だと思いますよぉ。でも、必要ならこわ〜いお姉さんに出てきて貰えばイチコロですぅ。」
「だ〜れがこわ〜いお姉さんだ〜?」
レイアはそう言いながらミュールの両頬をつねる。
「ふがふが。」
ミュールは口に出来ないがしっかりとレイアを指差した。
「ったく、じゃ、いこっか。」
「いたたぁ。はい〜。こわ〜いお姉さんはいりま〜す。」
「みゅ〜〜る〜〜!」
「きゃぁ〜〜〜。」
ふざけ合いながら二人が入ると入口の扉が閉まって、「本日貸切」の表示が出る。
暫くして店内は大いに盛り上がっていた。チャオが店内を見渡すと、少し離れた席でレイアとミュールが何やら話しながらどつき漫才みたいになっていた。
ルーは自分の膝元で満足そうな顔をして寝息を立てていた。
ローの方は他の同僚と楽しそうに飲んでいる。
そして、他の皆もそれぞれ楽しくやっていた。
(先輩、ルー、ロー、皆ありがとにゃ。)
チャオは一回目を閉じて、心の中でそう言った。
「皆乾杯だにゃ〜。」
「乾杯ー!」
近くに居るメンバーとグラスを合わせてから、チャオはにっこり笑ってグラスを一気にあおった。
次の日、憑き物が落ちたように、以前のチャオに戻っていた。
そして、お昼休みには久しぶりに、チャオの姿が食堂にあった。